就職以来、健康診断を受けてないことが、看護部長にバレた。
しぶしぶ検診センターに予約を入れ、渡された問診票に目を通す。
「採血を自分たちでやる場合は、容器を取りに来て下さい」
「その血は直接、検査科に出すこと」
採血を自分たちでやる場合? すげぇ。この職場ならではだ。
午後1時半からの検診が終わるまで、食事はお預け。でも日勤ナースに頼んで先に採血を済ませれば、ランチにありつける。誰にお願いしようかな。
捕らぬ狸の皮算用をしていた矢先に、509号室のOさんが亡くなった。
ひと月前、まだ辛うじて食べられた頃のOさんに、ラーメンの出前を頼まれた。最上階のレストランに行き、660円の塩ラーメンをお盆に乗せ、片手に掲げて病棟へ。鼻歌交じりにドアを開けようとした、その時だ。
ラーメンが音もなく、傾いたお盆の上を滑っていく。そのまま床に落下!
覆ラーメン、盆に返らず。
散乱した麺を手づかみでお盆に戻しているところを、通りがかった医師に目撃される。ダッシュで取って返して、ラーメンを作り直してもらった。
そのOさんの湯灌とエンジェルメイクを担当したのは、いつも口数少ない孤高のナース、メグミさんだ。お風呂に入れ、ご家族が用意したかわいい浴衣を着せて、顔にメイクを施していく。眉間のしわも、指で丁寧に伸ばす。
闘病でやつれたOさんの目鼻立ちが整い、肌に潤いがよみがえっていく様は、魔法を見ているようだった。
妻がリンパ浮腫に苦しんでいた2年前、緩和ケアの夜勤ナースだったメグミさんは、勤務後に私服姿で一般病棟の妻を訪れ、ケアを施してくれた。
彼女はリンパ浮腫の専門家でもあるのだ。
そのうち妻の腕がさらに腫れて、パジャマの袖が通らなくなった。すると彼女は休みの日に街に出て、LLサイズのパジャマを探してきてくれた。
いよいよ妻の病気が進行し、一般病棟から緩和ケアに移った夜。
「夜中にナースコールを押すのを、絶対に遠慮しないで。寂しいだけでも、すぐに呼んでね」
メグミさんにこう言われたと、妻はうれしそうだった。
そして今、メイクの手を休めず、顔を背けたままメグミさんが言う。
「ミヤサカさんの奥さん、夜中に言ってました。スプーンしか持てなくなった右手を使って、もう一度お蕎麦が食べたいって」
長年にわたる夜勤生活のせいか、メグミさんは心身のバランスを崩して、しばらく休職していた。そして結局、今月いっぱいで退職することに。
「ひと足先に辞めた親友ナースのMちゃんと、小さな洋菓子店を開くんです」
姉御肌でちょっと怖いメグミさんの、柔らかい笑顔を初めて見た。
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