2023年3月9日

世界はついに開かれた、かな?

 ヒマラヤ登山隊に参加することになり、病院にひと月の休暇をもらう。

 勤務最終日、医師や看護師に出発のあいさつ。みんな笑顔で送り出してくれたが、看護師長の眼が笑ってない。

 でも、1週間に患者さんが何人も亡くなるこの病棟で働いていると、

「死ぬときになって後悔したくない。やりたいことは、今やっておきたい」

 という気持ちが、抑えられなくなるのだ。

 マルヤマ師長、どうかお目こぼしを…

 

 海外は1年ぶり。去年は、英会話を学ぼうとフィリピンに渡った。

 コロナ禍が一段落した時期だったが、日本出国にはワクチン証明とPCR検査の陰性証明が必要。フィリピン入国では、感染で入院した場合の費用をカバーする保険と、予約済の復路航空券もいる。

 到着したマニラ空港では、迷彩服の兵士がものものしく警戒する中、書類を審査するブースの長い行列に並んだ。

 肝心の英会話学校は、すべて臨時休校中!そもそも、公立小中学校さえ休校していて、街から子どもの姿が消えている。

 電車に乗れば、2両ごとに配置された警備員が車内を巡回し、「鼻マスク」姿の乗客を注意して回る。

 結局、毎日ホテルの部屋に籠ってオンライン英会話を習った。

今回、成田空港のチェックインと出国審査は、平時と変わらないスムーズさ。バンコク経由で乗ったタイ航空とライオン・エアの客室乗務員は、マスクを着けている。目元を強調するメイクのせいか、女性CAの美しさがさらに際立つ。

乗客は、欧米人を中心にノーマスクが目立ったが、お咎めなし。警察官さえ呼びかねない一時期のピリピリした雰囲気は、まったくない。

到着したカトマンズ空港では、ワクチン証明を求められるも、けっこういい加減。友人が証明を出すのに手間取っていたら、係官に「いいから行け!」と言われたらしい。

市内は以前と変わらず、未舗装の砂利道をクルマと人と各種哺乳類が入り乱れて、それぞれの目的地に急ぐ。砂ぼこりと排ガスが充満していて、ふだんは忘れがちな私でさえ、率先してマスクを着用!

登山専門旅行社に行くと、所属の登山ガイドはほぼ全員、エベレスト方面に出かけていた。コロナが明けて、3年ぶりに登山者が殺到しているという。

ネパール全土に及んだロックダウンで、一時は3か月も自宅に軟禁されたという、旅行社のプラビン社長。

 わが登山隊の経費、〇万ドルの札束を手渡すと、えびす顔を隠さなかった。

 

Lumpini Park, Bangkok


2023年3月4日

孤高のナース

 

 就職以来、健康診断を受けてないことが、看護部長にバレた。

 しぶしぶ検診センターに予約を入れ、渡された問診票に目を通す。

「採血を自分たちでやる場合は、容器を取りに来て下さい」

「その血は直接、検査科に出すこと」

 採血を自分たちでやる場合? すげぇ。この職場ならではだ。

 午後1時半からの検診が終わるまで、食事はお預け。でも日勤ナースに頼んで先に採血を済ませれば、ランチにありつける。誰にお願いしようかな。

 捕らぬ狸の皮算用をしていた矢先に、509号室のOさんが亡くなった。

 

 ひと月前、まだ辛うじて食べられた頃のOさんに、ラーメンの出前を頼まれた。最上階のレストランに行き、660円の塩ラーメンをお盆に乗せ、片手に掲げて病棟へ。鼻歌交じりにドアを開けようとした、その時だ。

 ラーメンが音もなく、傾いたお盆の上を滑っていく。そのまま床に落下!

 覆ラーメン、盆に返らず。

 散乱した麺を手づかみでお盆に戻しているところを、通りがかった医師に目撃される。ダッシュで取って返して、ラーメンを作り直してもらった。

 

 そのOさんの湯灌とエンジェルメイクを担当したのは、いつも口数少ない孤高のナース、メグミさんだ。お風呂に入れ、ご家族が用意したかわいい浴衣を着せて、顔にメイクを施していく。眉間のしわも、指で丁寧に伸ばす。

闘病でやつれたOさんの目鼻立ちが整い、肌に潤いがよみがえっていく様は、魔法を見ているようだった。

妻がリンパ浮腫に苦しんでいた2年前、緩和ケアの夜勤ナースだったメグミさんは、勤務後に私服姿で一般病棟の妻を訪れ、ケアを施してくれた。

彼女はリンパ浮腫の専門家でもあるのだ。

そのうち妻の腕がさらに腫れて、パジャマの袖が通らなくなった。すると彼女は休みの日に街に出て、LLサイズのパジャマを探してきてくれた。

いよいよ妻の病気が進行し、一般病棟から緩和ケアに移った夜。

「夜中にナースコールを押すのを、絶対に遠慮しないで。寂しいだけでも、すぐに呼んでね」 

 メグミさんにこう言われたと、妻はうれしそうだった。

そして今、メイクの手を休めず、顔を背けたままメグミさんが言う。

「ミヤサカさんの奥さん、夜中に言ってました。スプーンしか持てなくなった右手を使って、もう一度お蕎麦が食べたいって」

 長年にわたる夜勤生活のせいか、メグミさんは心身のバランスを崩して、しばらく休職していた。そして結局、今月いっぱいで退職することに。

「ひと足先に辞めた親友ナースのMちゃんと、小さな洋菓子店を開くんです」

 姉御肌でちょっと怖いメグミさんの、柔らかい笑顔を初めて見た。



肉食女子

わが母校は、伝統的に女子がキラキラ輝いて、男子が冴えない大学。 現在の山岳部も、 12 人の部員を束ねる主将は ナナコさんだ。 でも山岳部の場合、キャンパスを風を切って歩く「民放局アナ志望女子」たちとは、輝きっぷりが異なる。 今年大学を卒業して八ヶ岳の麓に就職したマソ...