2016年3月14日

ネパールでパンツを洗濯する時は


 ネパール・ヒマラヤで1週間、山歩きをした後、湖畔の町に下山した。

 ホテルの正面に洗濯屋があり、「1キロ100ルピー(約100円)」「特急仕上げ3時間コースあり」と書いてある。タイやラオス、カンボジアでも、街の洗濯屋はアイテム毎でなく、キロ当たりの料金だった。

さっそく汚れた登山ウェアを持ち込むと、出てきたおばちゃんがひと言、「Load shedding(停電)」。天気が良くて明日夜、雨が降れば明後日の仕上がりになるという。

 この国では、「停電」がすべての免罪符だ。しばらく山に入っていて、すっかり忘れていた。

 前日まで山村を転々としたが、各村で自前の水力発電(つまり水車)を持っていたりする。車も通らないのに、1日24時間電気が使える、夢のような集落もあった。首都カトマンズより、田舎の方が電力事情はいい。

 明朝にはここを発つので、時間がない。ホテルの洗面台で、洗剤の代わりに備え付けのシャンプーで手洗いする。

 空気がとても乾燥していて、室内干しでもひと晩で乾いた。少々の手間で、300円節約できた。

 首都カトマンズでは、ゲストハウスや商店が副業でランドリーサービスを手掛けている。「アメリカ製電気洗濯機を使用」「特急サービスあり」とうたう。洗濯物を持ち込むと、スマホから目を離そうとしない、やる気ゼロの店員に「Load shedding」「仕上がりは明後日」などと言われる。

 1日13時間停電するこの街で、洗濯乾燥機が使えるタイミングは多くない。「3時間でできる」は、とんだ誇大広告だ。

 数年前、停電のカトマンズから小型機を乗り継いで、ダウラギリ峰山麓の村に着いた。ゲストハウスの中庭で、電気洗濯機が勢いよく回っている。宿の主人に洗濯物を出したいと言うと、快く引き受けてくれた。一切合財を差し出した。

 快調に回る洗濯機。突然、キュン、といって止まってしまった。

 ああ停電か。

 すると、中学生ぐらいに見える主人の娘さんが、私の服を洗濯機から取り出し、桶で手洗いし始めた。

 待てよ。

 今、彼女が洗っているTシャツの下に見えるのは、私のパンツではないか。かといって、今さら取り返しに行くのも恥ずかしい。

我がパンツを年頃の娘さんに、目の前で手洗いされる心境たるや・・・初めて味わったが拷問だった。

 あの時以来、どんな長旅だろうが、たとえ1キロ100円だろうが、下着だけは自分で洗う。

2016年3月3日

神々の山 その麓で


カトマンズを歩いていて、車とバイクの長い行列に出くわした。渋滞と違い、まったく進む気配がない。先頭をのぞくと、はるか向こうにガソリンスタンドが見えた。

これは、過去にも震災直後の街を取材して見かけた風景だ。でも、ネパールを襲った地震から、もう1年近くがたつ。このガソリン不足は、国境封鎖の影響だ。タクシー運転手の苦労が偲ばれ、値切るのもほどほどにしなければと思う。

カトマンズに着いてから、電気とお湯を求めてホテルを転々とした。どのホテルも、一部で営業を再開しつつ、地震後の修復工事を続けている。玄関前に、がれきの山が残っていたりする。

そのひとつに、7部屋ほどの小さなゲストハウスがあった。ネワール様式の趣ある建物、中庭には花が咲き乱れ、砂ぼこりが舞う表通りとは別天地だ。まだ休業中だったが、マネージャーに頼み込んで、ひと部屋貸してもらった。

毎日、階下のカフェで朝食を取る。たったひとりの客のために、コックとウェイターが専属で食事を用意してくれる。

マネージャー氏によると、地震でキッチンが壊れたほか、大きな被害はなかった。従業員が被災し、出勤できないために休業を決めた。建物の修復が終わったいま、再びスタッフを集めるのに苦労しているという。

陰でウェイターに聞くと、「地震前から働いてるけど、ここは給料安すぎ。村には妻と3歳の息子がいるし、どこか外国で働きたい」という。

このゲストハウスは、前途多難だ。

ネパールは、IMFによれば「アジア最貧国」。最近の失業率は不明だが、10年前は40%あったという。ヒマラヤや仏教遺跡を擁する観光立国なのに、地震で観光客が激減。外国に職を求める動きが加速し、今日もパスポート発給に長蛇の列ができていた。

彼らの渡航先は、カタール、UAEなどの中東諸国やマレーシア。異国で孤独にさらされての自殺、建設現場など過酷な現場での労災死が後を絶たず、社会問題化している。

カトマンズ在住の友人は、人を迎えに行った空港で、1時間半に5体の棺が到着したのを見た。乗客のスーツケースと一緒に、棺がターンテーブルで回っているのを目撃した知人もいる。

この国では、人口3000万の7割が、1日2ドル以下で暮らす。登山やトレッキングで山村を訪れると、現金収入に頼らず、土地に根差して力強く生きる人に会うことができる。

いっぽう、首都カトマンズで道を歩けば、赤ん坊を抱いた母親に金を無心される。食堂で窓側に座ると、皿を覗きこむ浮浪者の、強い視線にさらされる。

8000メートルを超える、ヒマラヤの巨峰が連なるネパール。山好きには夢のような場所だ。だがその懐に飛び込む前に、この国が抱える現実が、いやでも目に飛び込んでくる。



2016年2月27日

停電と湯たんぽ


 1日13時間の停電。地震前から計画停電。

 これがネパールの現実だ。

 電気が使えるのは残り11時間。たいてい寝ている間に通電されるので、文明的な生活が送れるのは1日4時間ほどになる。

 4年前に来た時は、うかつにも気がつかなかった。仕事で泊まるレベルのホテルには自家発電があり、停電と同時に電源を切り替えていたからだ。

 ある晩、外で食事を済ませた後、レストランを出るとやけに夜道が暗い。通りがかる車のヘッドライトを頼りに、必死になってホテルに帰った。

 いま思えば、あれが停電だった。

 中級ホテルやB&Bに泊まる今回は、市民生活を身近に感じている。

 昨日、暗くなっても来るはずの電気が来ない。部屋は、蓄電池でぼんやり点く電灯ひとつだけ。給湯器が使えず、熱いシャワーも浴びられない。バッテリーを気にしながら、タブレットでメールを書く。そのうちwi-fi も息絶え、天涯孤独を味わう。

 翌朝、停電時間が細かく地区割になっていることが判明。その日、1キロほど離れた別のホテルに引っ越したのが原因だった。

 ネパール人に電気が来る時間を尋ねると、スマホで教えてくれる。すぐ時間が変更になるので、そのつど情報を更新するアプリが出回っている。

 今日は電気が来るのが午後2時から5時まで。何を置いてもホテルに戻り、その間に温水シャワーを浴び、タブレットやデジカメ、シェーバーの充電に勤しむ。

 こちらでは多くの人が、年中水シャワーを浴びる。同じ水シャワーで、気温が20度を切っただけで風邪をひくバンコク市民に比べ、氷点下の日もあるカトマンズ市民はたくましい。

 夜、地元の安食堂に入ると、暗がりで人がうごめいている。出てきた食べ物さえよく見えないが、とりあえず味はおいしい。

 慢性的な電力不足のネパールでも、この時期は特に停電が長い。暖かくなり、ヒマラヤの雪解けが水力発電に使えると、少しましになるようだ。

 昨年、大地震に追い打ちをかけるように、インドとの国境が政情不安で封鎖された。ガソリンとガスをインドに頼るネパールは、たちまち干上がった。首都カトマンズでは車が減り、空の便やバスに運休が続出。市民は炊事に薪を使ってしのいだ。

 自家発電はあっても、ガソリンが手に入らない。ソーラーパネルや車載バッテリーなど、あらゆる代替手段が使われた。在住日本人に聞くと、先が見えない不安感で、余震より国境封鎖の方が怖かったという。

 今月ようやく国境が開かれ、市民生活は平常に戻りつつある。ガソリン高騰で、空港から市内まで1500ルピー出さないと捕まらなかったタクシーも、数日前は交渉で550ルピーまで下がった(1ルピーは約1円)。

 暖房が効かないホテルでは毎晩、部屋が遠慮がちにノックされ、笑顔と湯たんぽが差し入れられる。天災と人災(政府の無策)が絡んだ絶望的なエネルギー不足を、人の温もりが補っている。


2016年2月26日

大きなお尻 小さなお尻


 バンコクを離陸して3時間。機内食のカレーも食べた。カトマンズ行きタイ航空機が、そろそろ目的地上空に達する頃だ。

 1周、2周、3周と旋回。いっこうに高度を下げる気配がない。

そのうち、液晶モニターに映る機影が、あさっての方向に向かい始めた。

 まさか。

やがてキャプテンからのアナウンスで、恐れていたことが現実になる。

「えー、カトマンズ空港が天候悪化で閉鎖されました。地上の報告によると、再開まで2~3時間かかるようです。当機はインドのコルカタに向かいます」

機内に動揺した様子はない。政情不安でネパール・インド間の国境が封鎖されて以来、ネパールではガソリンが枯渇し、航空燃料の補給もままならない。カトマンズに向かう飛行機は、初めから往復分の燃料を積んでいるのだ。

絶妙のタイミングで、客室乗務員がドリンクサービスを始めた。

コルカタに着陸すると、飛行機はターミナルから離れて停止した。乗客は機内に缶詰めのまま、いつとも知れないカトマンズ空港の再開を待つことになった。

トイレに、順番待ちの行列ができる。私の席は運悪くも、トイレの真横だ。

昨年の大地震と国境封鎖の影響か、乗客に外国人旅行者は少ない。トイレに立つ多くは、ネパールの女性たち。使用中とわかると、ごく自然に、私の席のひじ掛けに腰を下ろしてくる。

大きなお尻、小さなお尻が入れ代わり立ち代わり、目前に迫る。

この状況はいったい・・・

今まで滞在したタイで、人は身体的接触、特に異性間の接触を嫌った。その点タイ人は日本と似ている、というより日本以上だった。混みあう電車の中でも、何とか周囲の空間を確保しようとする。初対面でハグしたり、フランス人のように頬にキスなど、とんでもないという国民性だ。

そんな人たちの中で2か月暮らした後だけに、ネパールは人と人との距離がずいぶん近いな、と新鮮に思った。

同じネパール人でも、男はひじ掛けに座ってこない。立ったまま順番を待っている。

「男の尻だけは断固阻止する」という、私の視線を察するのだろう。

タイ航空のCAが笑顔を絶やさず、手にビニール手袋をはめ、こまめにトイレを清掃する。コルカタで2時間以上も待ったが、お尻の競演のおかげもあり、長く感じなかった。

結局、普通なら3時間30分のところを7時間30分かかって、暮れなずむカトマンズ空港に到着した。

乗客たちは、特に急ぐ様子もない。ゆっくりと身支度を整え、まるで何事もなかったかのように降りていく。

お尻に見覚えのある後ろ姿が、小さくなっていく。



2016年2月21日

預金通帳を食べられた


タイのATMから現金を引き出した時は、その場でお札の数を確認する。

 この用心深さ、インドで悪徳両替屋と対決していた頃の癖かもしれない。

 でも実際、こちらのATMの信頼度は、日本ほどではない。キャッシュカードを飲み込んだまま、返してくれないという話を聞く。

 恐怖である。

 自衛策として、街かどに設置されているATMは避け、銀行内のATMを使っている。トラブルがあった時、すぐ行員を呼べるからだ。

 今回チェンマイの両替商で、少しまとまった金額をバーツに替えた。

 現金は持ち歩きたくないので、一刻も早く銀行に預けたい。スーパーの入り口にATMを発見する。

近くに銀行は見当たらない。少し危険だが、ここに預けよう。

 ・・・でも不安だ。有り金を預けた後で、もしカードが出てこなかったら、身ぐるみはがれることになる。

 3台並ぶATMの右端は、通帳記入専用機だ。まず、このあたりで試してみよう。

 恐る恐る、通帳を挿入する。なかなか中に入らない。上下を逆にして、もう一度。ぎこちない動きで、通帳が飲み込まれていく。ウィーンという動作音。

 待つことしばし、画面に不吉な文字が浮かんだ。

Not in Service

 あとはキャンセルボタンを押しても、機械を叩いても、まったく反応なし。もとより非常用ボタンや、銀行直通インターホンの類は一切ない。

 絵にかいたような結果になった。

 隣のATMを使っていたタイ人に、銀行の電話番号を教えてもらった。ところが、何度かけてもつながらない。

 宿に戻り、フロントの女性に窮状を訴える。幸いこの時のホテルは、旅行者の面倒見がいいことで評判だった。私が部屋で待っている間に、代わりに何度も銀行に電話をかけ、そのつど状況を知らせてくれた。

「いま、担当者が食事に出ていると言っています」

「今日中に修理するのは難しいそうです」

「明日、口座を開設した支店に出向けば通帳を作り直すと言っています」

・・・やれやれ。

 女性にお礼を言いつつ、つい皮肉が口をついて出た。「こういうこと、しょっちゅうあるんでしょ」

 答えは、「No! You are lucky!」 だった。

 旅の途中で、支店に寄っている暇などない。今度は危険を冒してキャッシュカードを挿入し、残りを全額引き出した。

 タイを留守にしていた1年で3バーツ、利子がついていた。

 

2016年2月17日

チェンマイの家


 この冬も、タイ北部・チェンマイから車で30分ほどの郊外に滞在した。

ここには、6年前からお気に入りの家がある。会社時代は3泊するのが精いっぱいだったが、一昨年は8泊、昨年は9泊。今年は10泊してしまった。

木造2階建で、屋根は茅葺き。窓にガラスがなく、網戸だけなので風通し抜群。周囲を林と田んぼに囲まれ、夕方や夜明けは鳥たちの声がうるさいぐらいだ。

 この家は、エイズ孤児らを育てる日本のNGOの付属施設。それぞれ趣が異なる貸家が5棟あり、私が払う宿泊料はNGOの運営費として生かされる。
 他の滞在者と一緒に、施設を案内してもらった。大きなガジュマルの木を中心にした広い敷地に、子供たちの寮、図書室、縫製所、事務室などが点在する。現在、3歳から18歳までの30人が共同生活を送っている。

 建物の中から、幼児の泣き声が聞こえてきた。保母さんに薬を飲ませてもらっている。抗HIV薬はすごく苦いらしい。

開園後3年の間に、10人の子供たちが次々と命を落とした。治療法の進歩で、最近亡くなる子はいない。それでも、HIVに母子感染した子供たちは一生、薬を飲み続けなければならない。

部屋の掃除をしたり、食事を作ってくれるのは、施設を卒業した孤児や、先住タイヤイ族(シャン族)の若者たちだ。彼らはシャイで働きもの。その笑顔と、初々しくも一所懸命な様子を見ていると、いつも来てよかったと思う。

数人の日本人スタッフもいる。忙しそうな彼女たちが、実はボランティアだと聞いて驚いた。ビザの関係もあり、NGOが有給で日本人を雇うことは難しいようだ。それでも、希望者は多いという。

去年までここで働いていたSさんに、行きつけのクイッティオ(タイ式ラーメン)屋に案内して頂いた。彼女は、日本ではカメラマンとして働いていて、何となく私と経歴が似ている。

前の会社で大変な経験をして退職し、縁あってタイに渡った。カメラマン→タイでボランティア。2年がすぎた。これからどうするの? Sさんは、私のようなモラトリアム人間ではなかった。

現地の大学で1年間、タイ語を学ぶ。そして、チェンマイを拠点にバンコクにも出ながら、こちらで写真の仕事をするつもりだという。

「実はいま、近くに家を建てているんです。施設から独立した子たちの下宿にもなると思って」

すでに車を買ったとは聞いていたが、この思い切りの良さ。ボランティアの任期が終わっても帰国せず、生活の拠点をタイに移した人は、ほかに10人ほどもいるという。

報酬を気にせず働いているうちに、思わぬ出会いがあり、やがて自ら選択する機会が訪れる。Sさんの話を聞いて、自分はもう少し動き続けようと思った。

今年もチェンマイに来てよかった。



2016年2月12日

インパール遥かなり


 チェンマイ郊外の貸家に滞在し、高木俊朗「インパール」を読んでいる。

学生のころはアジアの安宿で、厳選して持ってきた数冊の文庫本を少しずつ読んだ。今は世界中どこにいようと、電子本をその場で買えるから便利だ。

 1944年、日本陸軍がミャンマーから国境を越え、遠くインド西部インパール攻略を企てた。行く手には大河チンドウィン川や、密林覆うアラカン山系が立ちはだかる。部下が反対する中、政権存続を賭けた東条英機首相と、その意向を汲んだ司令官、牟田口廉也が作戦を強行した。

「食料は敵から奪え」と言われ、軽装で出発した8万5千の兵は、インパール目前で重装備の連合軍に迎え撃たれる。敵戦車を前に、得意の銃剣突撃もむなしい。3か月の戦闘で大損害を出し、作戦は失敗した。

負傷し、飢えとマラリア、赤痢に苦しみながら敗走する兵士を、モンスーンの豪雨が襲う。次々と倒れた者が道しるべとなり、その道中は「白骨街道」と呼ばれた。ミャンマー北部を横断し、タイなどに生きて還れたのは2万人だった。

 先週、チェンマイから2日がかりで、ミャンマー国境に近いクンユアムの町に行った。町には、日の丸がひるがえる博物館がある。そこには地元の警察署長が収集した、日本兵の所持品が陳列されている。

 昼頃に着くと、受付の女の子がのんびりラーメンを食べている。人けのない館内には、色あせた軍服、鉄兜、小銃や手榴弾などが置かれていた。日本の団体が運営に関わっており、見学者も日本人が多いはずだが、説明板の日本語が奇妙だ。

 展示には感慨を覚えなかったが、西に連なる国境の山並みを眺めていると、1000キロを歩いてタイの土を踏んだ兵士の心中がしのばれた。せっかくたどり着いたこの地で、7千人が力尽きて亡くなったという。

 牟田口司令官は、たとえ食べ物や武器弾薬がなくても、皇軍精神さえあれば勝てると考えていた。ふと、ある情景が浮かんできた。

  カメラマン時代、陸上自衛隊の演習を取材した。軍事専門記者と、中国地方にある自衛隊駐屯地前で待ち合わせた。約束の時間に着くと、記者が仁王立ちしている。軍隊では常に「5分前」を励行しなければいけない、と怒られた。

 演習では、実弾が飛んでこないのをいいことに、銃を構えている目の前にしゃしゃり出て写真を撮った。さぞ演習の邪魔だったと思う。

 その後、部隊長の1佐にインタビューした。「少佐・中佐・大佐」といった旧日本軍の階級は、平和国家日本で「3佐・2佐・1佐」に改称されている。この際、イッサと呼ぶより「大佐殿」と呼んだ方が、こちらも分かりやすいし、たぶん本人も喜ぶだろう。

その彼が「いくら兵器が進歩しても、最後に戦闘の雌雄を決するのは歩兵の突撃です」と力説する。記者も、深くうなずいていた。この時、2人に帝国陸軍の亡霊が憑依したかと思った。

クンユアムの前週は、ミャンマー北部メイミョーにいた。件の牟田口司令官が指揮を取った地だ。標高1100メートルにある、イギリス植民地時代からの避暑地。木立の間に洋館が並び、いまは観光客を乗せた馬車が行きかっている。

 インパール作戦は、インドから中国に物資を運ぶ「援蒋ルート」の破壊が目的だった。逆に今は、200キロ先の中国国境から来たトラックが、物資を満載して西へ向かう。
 当時の連合国と日本、中国が、ミャンマーを舞台に今度は経済で戦っている。


AIカウンセラー

  やった! 晴れて夏休みに突入だ! と、喜びたいところだが… 大学院の夏休みは、まさに絵に描いた餅。 いまだに学期末の長文レポート課題に追われている上、休み期間中もほぼ毎週、集中講義がある。 でも、研究法や統計法の 100 分間プレゼンテーションが無事に終わった...